昭和47年11月02日 朝の御理解



 御理解 第32節
 『女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くような心になれば、おかげがある、又それを煮て食べる時、神様頂きますと言う様な心あらばあたる事なし。』 

 理屈を抜きにして此の様な生き方いわば頂き方、それが私は金光教の信心の真髄ではなかろうか私は思う、今年の秋の教祖大祭に教主様がお祝詞を奏上されました。そのお祝詞のほんの一節に『教祖の神の御信心をいよいよ確かに頂き奉り』と言う所があります。教祖の神の信心をいよいよ確かに頂き奉り。教祖の神の信心をいよいよ確かに頂き奉ると言う事、私は三十二節、此処の所を、此の様な頂き方此の様な信心の姿勢、もう私今日は理屈とかね、いろんな事じゃないです。
 教祖の信心のいわゆる面目躍如たるものがね、この御教の中にあると思うのですよ、もう理屈じゃないです、信心とはね。女が菜園に出てと言う所を例えばそんなら、男が職場に出てと頂いて言い訳です、女の方が野菜畑にらして頂いて、そして先ず大地を拝む様ないわゆる敬虔さ、敬虔さと言うか謙虚さと、この謙虚さが欠げる所にです、慢心が出るんですよ、慢心が出る所にです、所謂大怪我の元慢心が出る、そこから慢心は大怪我の元なりと仰る、その大怪我の元ができるのです。
 まあ大怪我と言うのは大変な心配事、大変な難儀な問題。それはなる程大変な難儀な問題、大変な苦しい事と言う様な事がです、出来て参りました時の信心姿勢と言うのも、次ぎには教えておられますよね、私共は何処にお粗末御無礼があるのやら分からんのですけれども、けれどもそんなら此の様な頂き方、女が菜園に出て大地を拝むと言う様な心なんです。もう此処にはねその謙虚な在り方の上にはです、
 そうしたいわゆる大怪我の元と言った様な物が無く成る様に思います、お野菜一本頂かせてもらうのにです、野菜畑に出て 先ず大地を拝むと言う事は天地を拝むと言う事なのです。天地の言うなら御恩恵に先ず感謝すると言う事なのです、この感謝の心この喜びの心がです、本当に徹底して出来て行くならばです、私は難儀は無いのじゃないかと思うのです。自分が体験しとらんから解らんが私共の場合いつも難儀が有って。
 問題があってと言う様な、だからその問題を私共はですその問題の受け方、その頂き方姿勢、そして其処に例えば産みの苦しみ、そして又産みなされる喜びの物も、次ぎの段階にはあるのですけれども、そのもう一つ前の段階です此処はね、いわゆる教祖の神様の確かな信心の頂き方、と言うならまず此処だと思うですね。此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん、と仰るのですから。いかに私共がその喜び神恩報謝の心と言うものが希薄であるか、無いかと言う事が分かる。
 女が菜園にでて先ず大地を拝む、本当に敬虔その物の姿です、そんなら男が職場に出て例えば行員さんなら工員さんが機械を拝む、自動車に乗られる方達がです先ず自動車に乗られる前に先ず自動車を拝む、そう云う私は敬虔さと言うものがです、慢心の出る隙が無い、不平が起こる不足が起こる、それは皆んな自分の心の慢心からです。女が菜園に出て大地を拝む、男が職場に出て機械を拝む、自動車の運転する人が先ず自動車を敬虔な心で拝ませてもらうて言う。
 そう言う信心が私は教祖の神様の確かな信心を頂くと言う事はそう言う事だ、教祖の神様はそう言うお方だったんだと私は思うですね。そのけいけんさと云うけいけんな祈りと言うか敬けんなその姿そのものがですもう慢心の出ようがない。自分でですね不平が出て不足が出ておる時、自分の心の中を見てごらんなさい、もう絶対慢心ですから私がここ二三日それを実感致します。例えば四時の御祈念を終わって、四時半に下がります。下がるとちゃんとお風呂が入れてある。
 お食事の準備がしてある、そうしてあればいいのです。ところがお風呂も入っておらん、いつ迄待っとったっちゃ黙っときゃ何時御飯食べさせるとかと、言わんならん様な事がある。そう言う時にです、俺が下がる事はもう四時半に下がる事は分かっとるじゃないか、どうしてお風呂入れとかんか、お風呂から上がってお食事する事は分かっておるじゃないか、何故ちやんとしとかんか、と言う様な心はもうさらさら起こらないです、この近々自分と言うものが段々分かって来ると。
 自分が大将のごと思うとるから俺が下がった時にはちゃんとお風呂入れとかにゃと、お風呂が入れてあろうがなかろうが食事の準備が出来ておろうが出来ておるまいがです、その時点時点を拝ませてもらう、今日は家内が忙しかったんじゃろ、手が回らなかったんだろう、と言う様な頂き方にはもう怪我のあるはずがない。  所がです私共は、私が何時に下がる事は分かっとるじゃないか、もう既に自分がよかとの事思うとるのが既に慢心なんです、不平が起る不足が起ると言う事はもう絶対慢心です。
 女が菜園に出て大地を拝むと言う心、男が職場で機械を拝む、自動車の運転なさる方が自動車を拝む、こう言う私は信心の姿勢が、教祖の神様が身に付けておられた信心だ。教祖の神様の信心をお祝詞の中に教祖の神の信心を確かに頂き奉ると言う事は、そう言う所をです、私は目ごもう頂いて行く事だと思う。其処には怪我あやまちの起こる隙がない、例えばそんなら自動車を拝む、そして運転台に乗るハンドルを握る、『只今から神様何処どこにやらして頂きます』とお願いをする。
 例えば此処に御座います、女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜く様な心になれば、おかげがあるとおっしゃる。またそれを煮て食べる時、神様頂きますと言う心あらば、当たる事なしと仰る。自動車を先ず拝むんですよ是はもう敬虔な心でおる時には拝まにゃおられんです、下駄をはく時拝まにゃおられんです、着物を着らせてもらう時その着物を拝まにゃおられんです。
 それは丁度お食事の時御飯を頂く時に頂きますと言う様にです、拝まにゃおられんのです、そりゃ金光様の信心ちゃ面倒くさかねと言ったら、だから金光様の信心はなか訳です 時間が掛かると掛らないとかじゃない、自動車を拝ませてもらう其処にはです、おかげが有ると、又その車を運転させてもらう時にです、ハンドルを握らせて頂いて、神様只今から何処どこへやらして頂きますと。
 女がそれを食する時にですねお総菜にして、それを煮て神様頂きますと言う心あらば当たる事なし、と仰る。その自動車をいよいよ運転する時にです、神様どうぞ只今から何処そこへやらして頂きます、万事よろしゅうお願いします、とハンドルを握らせて頂く所に、怪我あやまちの起こるはずのない程しの、言うなら隙のない信心の姿と云う物が其処にある。そう言う姿が教祖さまの御信心の言うならば全てであり、それをいわば教祖の神の御信心を確かに頂き奉る事になるのです。
 只お祝詞の中にさらさらとこうその読んでしまえば何でもない事だけれども、今日はしきりにその、その事を頂くんですよ、教祖の神の信心を確かに頂き奉ると言う所を、そんなら何処を頂いたらよいか、と言うたらこの三十二節を頂くのです。そう言う信心だと云う事が分かっておりながら、分かっておりながらそう言う信心が、今の金光教全体にです、私は疎かになっておるのではなかろうかと思うです。
 実意丁寧神信心と口で言いながらです、そう言う所がです、実意を欠いでおるのだと私は思うのです、そこに問題があるのですそこに難儀が有るのです。喜びで開けた道じゃから喜びでは、なら苦労はさせんと仰るだ、そこでその言うならそう言う姿勢を作る為に、私共は信心修行をさせて頂く事になるです。神様頂きますと言う心あらば当たる事ないおかげを落とすとかね、いわば水ももらさんと言うのはこう言う頂き方じゃなかろうか、不平が起こる不足が起こる、もう是は必ず自分自信の慢心だと先ず悟るべきだ。
 そしてその事柄その時点時点をです、いわゆるその事柄その事を拝むと言う心、それを頂く時に頂きますと言う心、もうそれが心に障る事があるはずがない。心に障るもう絶対頂き方が間違っておるから心に障るのです、それは何がそう障っておるかと言うと慢心です。俺が私が、私が大将だ、その大将が四時半に下がる時にお風呂が湧いとらん、そう言う事でどうするか、俺が四時半に下がる事は分かっとるじゃないか。
 お風呂から上がったらお食事する事は分かっとるじゃないか、何をしとるのか、そこに問題が起こるです、ね。自分が良かつの様に思うておる所にです、いわゆる慢心は大怪我の元と言う、大怪我をしなければなりません、慢心です。その三十二節の前の三十一節に『信心する者は木の切株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持になれよ』例えばそんならいま申します、自動車を拝む何処どこ迄運転して参ります、万事よろしうお願いしますと運転をする。所謂それを煮て食する時に。
 神様頂きますと言う心あらば、当たる事なしと言う事なんです。そこであたる事なしのおかげを頂いて、その車から降りる時に木の切株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心持ち木の切株といやもう要らんもん、その要らん物を使わせて頂いてもです。立つ時には礼を言う心持ですから例えば今度は脱ぎ捨てさせて頂く所の、いわば履物に対してもお礼を言う心持自動車から降りる時にお礼を言う心持。
 お礼を言う心持ちに成れよともう此処に到る時に教祖の神様の信心の完璧を感じますね。三十二節に教祖様の信心の信心の姿勢と云う物がかくおありになられる、しかもそれをですこの三十一節で完璧に成就しておられる。木の切株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちになられよと。だからこの事を真から身に付けると言う事なんです、金光さまの御信心はね。それが無い所についつい俺が大将だから。
 私がしよるからと、私がと言う我が出てくるそこから慢心が出る。どんなに慢心が無いと言うても慢心とかさ気のない者はないと言う位、慢心と言う心はある、少しこうおだてられる、少し誉められる、ああたが居ってもらわにゃとこうおだてられると、いいやといよるけれども何処かに慢心が出とる、その慢心が出とる時に問題が起こる、そして大怪我の元なりと言う心の大怪我をしなければならん。いや心だけではない形のうえに大怪我の元が起こる。本当にですね。
 もう不平不足の起こった時はすぐ自分が慢心しとる時と思わにゃいかんです、教祖の神様の御信心を確かに頂き奉ると言う、お祝詞の一節からです、そんなら教祖の神様の御信心を確かに頂き奉ると言う事はどう言う事であろうか。難しい事はいらん、なる程頭が良かっても悪かろうが、さばけておろうが、さばけて居るまいがです、此処ん所ならば、誰でも本気でその気にならしてもらや出来ると言う気がします、此処ん所を抜きにしては、私は教祖の神様の信心を頂きますと言う事はないと思う。
 どんなに教祖の神様の教えておられる事の高度ないわば御教えを頂きましても、此処ん所が私はいわゆる原点になる所だと思う、信心の教祖さまの御信心の。一つ此処ん所を面倒くさがらずにですね、本当に大地を拝む、拝むだけじゃない、もう心行く迄ですまず拝む、面倒くさい事はない、そう言う信心をです本気でさせて頂きたい。 私共修行中の時分の事をまあー思わせて頂くと、もう本当に拝み続けておった、道を歩いておっても、もう御祈念のし続け出であった。
 神様の事をもう思い続けて道を歩いておった。岐路に立つ何時でしたか北野に行って帰り道鎮西橋を渡ってそしてあそこに、二道になっておりますよね、筑後川の方と土居の方の道とこう有ります、あの岐路に立って御祈念する、神様どの道を辿らせて頂いたら良いでしょうか、もう間違いがあるはずがないですよね、この行き方なら神様が右の方を通れ、左の方を通れと、仰るから右をとり左をとらせて頂くから間違いが有るはずがない。そこん所を自分勝手にさあこっちが近道じゃけん。
 こっちが道がよかけんと言う位な事で決めて行くから、言うなら怪我になる様な事もある。そう言う姿をですある時に久富正義さんが後ろから来よった、「大坪さんが何処かに行って帰りよんなさるばいの」と思うて来よった、そしたら鎮西橋の岐路の所に立ってから、私が御祈念させて頂きよる時の姿に触れてです、本当にまるきり後ろから後光のさすごとあったと言うとります。大地を拝むと言うのはそう言う意味なんです、だからちょっとこうやって拝むと言う意味じゃないです。
 その位な謙虚さと言う事です、道がそこに二つに分かれておるんだと、そこで神様このお伺いが出来んなら、例えば右の道を今から歩かせてもらいます、左の道に入らせてもらいますからと、願う様な心もちなんです、しかも謙虚そのもの姿で合唱して拝んでおる。なる程後ろから見ておった正義さんが後光のさす思いでしたと今でも言っておる様な、私は姿がです、教祖の神様の信心を確かに頂き奉っておる時のそれが姿形だと私は思うです。面倒くさい位の事じゃないですね。
 そこに確かないわば、歩み、それはもう潔くばたばたやって走って行きょる人達、それこそ拝み拝み行くからそれこそ牛の歩みの様でしょう、けれどもです結局それの方が早く着いておると言う事、そう言う行き方でおかげ頂いて来たから、そんなら今日この様な私はおかげを頂いておると言う事。その時分に例えば私とおなじ商売の上手な人がおりました、それは本当に上手でした、その人も今では大分儲け出しちゃおります、けれどもそれはそれは、そんなら現在の私おかげ頂いとるのとは比較はになりません。
 まあその人は一生懸命走って行きよった、私はぼちぼち拝み拝み通りよった、けれどもそのぼちぼち行きよった方が言うなら、言うなら兎の行き方より亀の行き方の方が本当だと、あのもしもし亀よのあれなんです。うまずたゆまず、もう拝み続ける事そう言う姿勢を身に付けてしまう事、神様頂きますと言うそう言う信心をです、自分の血に肉にしてしまう事、そう言う行き方を私は教祖の神様の信心を確かに頂き奉ると言う事だと思うです。もうそこには問題の起こり様がないと言う事。
 所が私共の場合は疎漏で御座いますから問題が起こる、いわゆる問題をはらむ、はらむ事によってそれをそんなら、ハッと気がつかせてもろうてそれをそんなら大事に大事にして、産みなさして次のおかげを頂くと言う、そう言う行き方ははもうその次ぎの信心です。今日はその原点です、教祖の信心の其処ん所が、教祖の神様の基礎基盤になる。それは今日三十二節に申しました様な行き方。神様頂きますと言う心あらば当たる事なしのおかげを頂いたのであるから。
 その後に三十一節の木の切株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ちが又必要、そこでいわば教祖の信心の完璧と言う事になる、自動車を拝む運転をするお願いをする、そして目的地に着かせて頂いたと言う所が三十二節。そして今度はいよいよ降りる時には木の切株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う様な心持ちで、自動車に礼を言うて降りると言う様なそう言う行き方をです、身に付けると言う事が教祖の神様の信心を確かに頂き奉ると言う事だと、私は今日は皆さんに聞いて頂きましたですね。
 ですから難しい事を言わずにですね、本当にそれを面倒くさがらずにですね、本当にそこん所を拝み抜かせて頂く、不平が起こったり不足が起こったりしたらもうそれこそ、ハッとする程気がつかにゃいけません。自分の心の中にモヤモヤしよる、物がある、自分の心が不平不足で一杯である、はあこれは今自分が慢心しておるんだと悟らせて頂いて、自分と言う者を見極めさせて頂く所からです。
 その事自体を拝んだりお礼を言うたりする事が出来る程しの事を、不平不足に思うとるので御座いいます。教祖の神様の信心を、確かに頂奉ると云う事は、今日私は聞いて頂いた様な事を本気で身に付け様とする所から、いわゆる本当の金光教、教祖的信心とでも申しましょうか、そう云う信心が身に付いて来る、教祖が受けられた様なおかげにも、お徳にもそこから触れて行けれる道が開けて来る。と言う事を聞いて頂きました。
   どうぞ。